浄土真宗とは(本願寺派・真宗大谷派)
■ 浄土真宗の開祖
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見真大師親鸞聖人 (1173年〜1262年)
(けんしんだいししんらんしょうにん) |
■ 浄土真宗の御本尊
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阿弥陀如来
(あみだにょらい) |
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■ 本尊唱名(御真言)
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)
■ 浄土真宗の経典
仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)
仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)
仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)
浄土論(じょうどろん)
教行信証(きょうぎょうしんしょう)
高僧和讃(こうそうわさん)
正像末和讃(しょうぞうまつわさん)
■ 浄土真宗の歴史
鎌倉時代の初期、法然の弟子親鸞が、法然の教え(浄土宗)を継承、発展させ、後に教団として自立した仏教。
宗派名の成り立ちの歴史的経緯から、現在、同宗に属する宗派の多くが宗旨名としては真宗を名乗る。過去には一向宗、門徒宗とも通称された。本尊は阿弥陀如来一仏。正依の経典は浄土三部経。
室町時代の後期に登場した本願寺8世の蓮如(1415年〜1499年)は、民衆の成長を背景に「講」と呼ばれる組織を築き、人々が平等に教えに耳を傾け団結できる場所を提供し、また宗祖親鸞の教えをわかりやすい言葉で述べた『御文(御文章)』を著作し、大衆に広く布教した。これにより本願寺は急速に発展、拡大し、一向宗と呼ばれるようになりました。
戦国時代、本願寺11世顕如(1543年〜1592年)は織田信長と対立し10年にわたり戦争を繰り広げますが、信長が正親町天皇による仲介という形で提案した和議を承諾して本願寺側が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結しました。
秀吉の時代になると顕如は京都中央部(七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を再興。1602年、石山退去時の見解の相違などをめぐる教団内部の対立状況などがが原因で、さらに徳川家康の宗教政策もあって、顕如の長男、教如(1558年〜1614年)が、家康から本願寺のすぐ東の土地(七条烏丸)を与えられ東本願寺を建立。これにより、当時最大の宗教勢力であった本願寺は、顕如の三男准如(1577年〜1630年)を本願寺12世とする西(浄土真宗本願寺派)と、長男教如を12世宗主とする東(真宗大谷派など)とに分裂することになり、以来現在に至る。
宗全体としては、日本の仏教各宗派の中では最も多くの寺院・信徒を擁しています
■ 浄土真宗本願寺派(お西さん)本山
西本願寺は、京都府京都市下京区にある浄土真宗本願寺派本山の寺院。正式の寺号は本願寺(ほんがんじ)。同じ下京区内にある東本願寺(正式名称は真宗本廟)と区別するために「西本願寺」「お西さん」などと呼ばれることが多い。 1994(平成6年)12月に、世界文化遺産に登録。
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本願寺(西本願寺)
(ほんがんじ) |
■ 真宗大谷派本山
東本願寺は、京都府京都市下京区にある浄土真宗の仏教寺院。真宗十派の一つ真宗大谷派の本山で、西本願寺と並ぶ浄土真宗の本山です。正式の寺号は1987年までは「本願寺」、同年以降は「真宗本廟」(しんしゅうほんびょう)。同じ下京区にある西本願寺と区別するため、「お東さん」と呼ばれることが多い。
親鸞聖人像を安置する御影堂は世界最大級の木造建築物であるであり、現在は大規模修復工事中です。
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東本願寺 正式名称は「真宗本廟」
(ひがしほんがんじ・しんしゅうほんびょう) |
ルネッサンス・浄土真宗 名前の由来
ルネッサンスとはフランス語で直訳すると「再生(Renaissance)」。文化を復興しようとする歴史的・文化的運動を意味します。寺院には数百年の歴史があり、冠婚葬祭関連以外にも昔は様々な役目を負っていました。寺子屋という学校としての役割、加持・祈祷によって病気を治す病院という役割、その地域で亡くなる方がいれば遺族のケアというカウンセラーという役割等。いわばその地域の文化の中心であり、僧侶はその地域の先生であり知識人でありました。日本文化の核としての役割をもつ寺院の価値を再認識するため、ルネッサンスという名前をつけました。
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